1976年 コンピューター黎明期に創業 データの入出力関連に特化したい

【アイ・オー・データ機器の創業】開発:1976年

まず、若者たちが熱狂した

写真:代表取締役社長 細野昭雄アイ・オー・データ機器は1976年、細野昭雄(現社長)が個人創業した。当時は、個人向けコンピューターの黎明期。この年はNECが日本初のパソコン(※1)となる電子工作キット「TK-80」(8ビット)を発売。前年の75年には、米MITS社が世界初のパソコンとされる組み立てキット「ALTAIR」(同)を発売した。
 
当時、一般の人でコンピューターの知識を持っている人はほとんどおらず、パソコンで「何かしよう」という発想は皆無に近かった。にもかかわらず、両社のキットとも熱狂的に支持された。ブームの中心となったのは若者たちである。コンピューターに秘められているだろう無限の可能性と、未来的イメージにあこがれた。マイクロソフトの前身が設立されたのは75年、米アップルコンピュータが設立されたのも76年だった。

大学の助手として

写真:当時のマイコン「TK-80」細野も、そうした一人だった。通産省(現在の経産省)で「国産の小型電子計算機開発」を研究していた竹内繁氏ら技官4人が、竹内氏の故郷(石川県宇ノ気町)でウノケ電子工業(現在の(株)PFU)を設立したのが1960年。その2年後の1962年、細野が入社した。 また、62年は同社が国産オフコンの第1号「USAC3010」を開発した記念すべき年でもある。社会は大きく動いていた。
 
その後、ウノケ電子創業者の一人、竹内繁氏が金沢工業大学から教授として招聘される。のちに細野は、竹内教授から「助手にならないか」と誘われる。より周辺機器を研究しやすくなるわけで、細野にとっては渡りに船だった。

周辺機器の可能性に着目

写真:高岡町作業場細野の将来は、ここで決まったといっても過言でない。金沢工業大学でコンピューターの開発と、周辺機器をつなぐ入出力部分(インターフェース)の研究に夢 中になった。とくにテレビ技術に強い大学だったため、テレビ技術にコンピューターを活用するなど、最新の技術をマスターしていった。学内ベンチャーとし て、実用機器類も開発している。
 
その後、竹内氏は教授職を辞し、周辺機器開発のベンチャー企業を立ち上げる。細野も行動をともにするが、やがてハードウエアの量産に乗り出すと聞いて、独 立を決意する。「やりたいことと、違った方向に向かっているように思えた」のである。
 
細野にとって、周辺機器づくりは、やればやるほど奥が深まった。ホビー機の域を脱していないマイコン(※2)であっても、適切な周辺機器をプラスしてやることによって“使えるマシン”に変身していくのである。金沢工業大学とベンチャー企業での経験が、豊富な知識と自信になっていた。

自宅1階で創業、ガレージが工場

写真:高岡町旧本社細野は会社設立にあたり、心に決めていたことがある。『データの入出力関連に特化して、その道のプロになっていきたい』ということだ。社名のIOも、コン ピューターにデータを入力する(input)の「I」、コンピューターからデータを出力する(output)の「O」からネーミングした。
  
社屋は、細野の自宅一階とした。工場となったのはガレージ。夏は暑く冬は寒い。とくに冬が厳しい。寒いので電気ストーブを点けると、ブレーカーが落ちる。そのためオーバーを着て寒さをしのいだ。
  
何もなかったが、夢と希望があった。『あの頃は、みんな話し出すと止まらなくなった。酒も飲まず、飯も食わず、明け方まで話し込んだ。未来の可能性を語り、エネルギーに満ちていた時代だった』と細野は懐かしく当時を振り返る。
※1) パソコンという呼び方は、米IBMが1981年に発売した「IBM Personal Computer」に由来する
※2) パソコンと呼ばれる前は個人向けコンピュータということで、マイコンと呼ばれた
~1976年の出来事~
・植村直己が北極圏の単独犬ぞり走破に成功。
・村上龍の「限りなく透明に近いブルー」が芥川賞を受賞。
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